棟方志功のことば
■板画について わたくしが板画という字を使うので、板と版とどうちがうのかと聞く人がいるんですよ。 まえまえ、わたくしも板画をはじめたころは、版という字を使っていたんだが板画の心がわかってからは、やっぱり、板画というものは板の生まれた性質を大事にあつかわなければならない。木の魂というものをじかに生み出さなければダメだと思いましてね。他の人達の版画とは別な性質から生まれていかなければいけない。板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたわけなんです。 しかし、これは私だけでは無いんで、江戸の後期頃の板画家はこの板を使っています。板元などというときはこの板だし、私は木板画専門ですから、この板を使った方がほんとうだと思って、この板を使っているんです。 もともといま普遍的に使われている“版”は“板”を半分にした字なんですね。 ですから、半分にするよりも、全部の意味を持たせた方が良いと、この板の字を使っているんですよ。 棟方志功 花深処無行跡より 昭和38年 |
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■ 花深処無行跡(はなふかきところぎょうせきなし) 志功が好んで用いた言葉の一つです。自分が、どんなに偉い人であろうと、金持ちであろうと、この大自然の中では、私たちは皆とても小さく、私たちの足跡などすぐに消されてしまうもの。 棟方志功 花深処無行跡より 昭和38年 |
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■柵について 「柵」というのは、垣根の柵、区切る柵なのですけれども、昔は城の最初のものを柵といったと聞いています。何何の柵、どこどこの柵という城の形にならない、ただクイを打っていく、そんなようなモノでしょうか、「しがらみ」というものでしょうか。そういうことに、この字を使いますが、私の「柵」はそういう意味ではありません。 字は同じですが、四国の巡礼の方々が寺々を廻られるとき、首に下げる、寺々へ納める廻札、あの意味なのです。この札は一つ一つ、自分の願いと信念をその寺に納めていくという意味で下げるものですが、私の願所にひとつひとつ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです。ですから納札、柵を打つ、そういう意味にしたいのです。たいていわたくしの板画の題には「柵」というのがついていますけれども、そういう意味なのです。 一柵ずつ、一生の間、生涯の道標をひとツずつ、そこへ置いていく。作品に念願をかけておいていく。柵を打っていく、そういうことで「柵」というのを使っているのです。この柵は、どこまで、どこまでもつづいて行くことでしょう。際々無限に。 棟方志功 板極道より(中央公論新社) 昭和39年 |
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■裏彩色について 裏から絵具を着彩するのではなくて、しみ込ませるというところに狙いがあります。板木につけた墨がしみこんで出来上がる道程と同じ様に、絵具が紙の裏面から表面にしみ込んで行くということが、板画の性質にさからわない道程なのです。自然に筆を通じて色彩が板されて行くのです。描かれたものではなく、しみこんで行くことによって、板画と同じ他力による出来栄えを見ることが出来るのです。そういうところから「裏彩板画」が出来ました。墨一色では感じがこめられない、というときの表現方法の一つにこの技法を考えました。「裏彩板画」は、なごやかな気分を板画にただよわせます。また、やわらかい、ほのぼのとした気分を板画に流れさせる効果があります。 棟方志功 板画の話より(小学館)棟方板画美術館 昭和29年 |
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■棟方志功先生との出会い 昭和28年、世界的な板画家「棟方志功先生」は人々に、その真価を認められていませんでした。先生と親交を深めていた行田市の渥美大童先生(書道家)のご紹介により、いちはやく先生の作品に接した若き日の先代は、「これだ!」「これからの菓子屋は先生のこの人間味あふれた暖かさ、そしてバイタリティが必要だ。」と開眼。さっそく、「十万石まんじゅう」を小脇に抱え、、、つづき 株式会社 十万石ふくさやさんHPより http://www.jumangoku.co.jp/deai/deai.html |
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■棟方志功画伯の略歴 明治36年9月5日、青森市で代々鍛冶職を営んできた父棟方幸吉・母さだの三男として生まれました。同43年4月に長嶋尋常小学校に入学し、3年生の頃 から凧絵に興味を持ち、級友にかいてあげていました。6年生の頃、田んぼに不時着した飛行機を見にみんなと走っていたところ、小川の所で転び、そばに白い 花(おもだかという水草)を見つけて、その美しさにひどく感激してしまいました。小学校を卒業する頃から兄と一緒に実家の手伝いをしていましたが、17才 の時に裁判所の弁護士控所に給仕として雇われ、仕事のない日や、早朝に合浦公園に出かけて写生をし、絵の勉強をしました。小野忠明先生から、ゴッホのヒマワリ、、、つづき 棟方志功記念館HPより http://www.lantecweb.net/shikokan/ |
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■棟方志功記念館愛染苑 福光には、棟方志功に深い関連がある場所がいくつもあります。福光へ疎開するきっかけになり、最初寄宿していた「光徳寺」、住宅をかまえた地「愛染苑」、志功が愛した桑山の山麓にある「福光美術館」などです。 ここ「愛染苑」では棟方志功の福光での生活が感じられるように展示、、、つづき 棟方志功記念館愛染苑HPより http://fukumitsu-art.city.nanto.toyama.jp/aizenen/aizenen.html |
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■板画の肌抄 板画は湿りと非常に関係があって、乾きと湿りがありますが、湿りと言う様なあり方が、大変版画に関係があるのです。紡績の糸などの世界にもあるそうですが、富山辺りどちらかといえば、湿潤な気候、土地柄を持つ処に板画が、よく出来るのです。また紡績の糸等も同じように、余り乾燥している処ではよい板画が出来難いのです。はっきりいえばわたくしも、天気のカンカンな時は、余り板画を刷り度くありません。梅雨のジメジメしている時、雨が降っているような時に、一番気持ち良く擦れるのです。板画の性質は、何かその乾燥の世界より、湿りの世界から湧いて参ります。だから、見る世界も慥に、その様な場合から出来て来るのではないでしょうか。余り、カンカンな日で照らされた乾燥国では、余りよく板画は見えません。矢張り障子の紙を透した、やわらかい光線でみるとか、また、何か金・銀の屏風の前などで見るとか余り直接な光線でなくに、間接な光線で見る方が最もよく身近に、美しく、間接的に見える・・・というのは、何か湿性に基づいた世界にあると思うのです。何かしっとりした気持ちを、多く人達の美の、世界の面に与えるのは、板画の最も大きい土台となっているのです。 棟方志功 板散華より(講談社文芸文庫) 平成8年 |
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■棟方志功の鑑定 現在は、財団法人棟方板画館理事など5名の委員の方による鑑定委員会が構成されており、月に1度鑑定会が開かれ真贋の鑑定が行われています。 贋作が大変多く流通している棟方志功作品にとって、作品が本物か贋物かはとても重要です。作品が贋作であれば、評価価格は、、、、、、つづき 棟方志功の作品を鑑定したい場合HPより http://www.art-information.ne.jp/youga/munakata/kantei.html |
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■二菩薩釈迦十大弟子 「板木をいっぱいにつかって、気の持つ力を出し切り、仏に近づきつつある人間像を思うままに彫りあげた。」 1940年国画会展で佐分賞受賞、サンパウロ、ヴェネツィア両ビエンナーレ展にも出品し、グランプリを受賞した。 棟方志功 二菩薩釈迦十大弟子 文殊菩薩の柵/羅ゴ羅の柵/摩訶迦葉の柵/富楼那の柵/迦旃延の柵/阿那律の柵/舎利弗の柵/優波離の柵/須菩提の柵/目ケン連の柵/阿難陀の柵/普賢菩薩の柵 十大弟子 (ジュウダイデシ)とは、釈迦の10人の主要な弟子のこと。経典によって誰が十大弟子に入るかは異なる。 |
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文殊菩薩(モンジュボサツ) 大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる。 |
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羅ゴ羅(ラゴラ) 密行第一。釈迦の息子。釈迦の帰郷に際し出家して最初の沙弥となる。そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で羅子(らご)と言う。 |
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摩訶迦葉(マカカショウ) 頭陀第一。釈迦の死後その教団を統率し、500 人の仲間とともに釈迦の教法を編集し、付法蔵の第一祖となった。 |
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富楼那弥多羅尼子(フルナミタラシニ) 説法第一。他の弟子より説法が優れていた。 |
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摩訶迦旃延(マカカセンネン) 論議第一。辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た。 |
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阿那律(アナリツ) 天眼第一。釈迦の従弟で阿難とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、眠らぬ誓いをたて視力を失ったが、そのためかえって真理を見る眼をえた。 |
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舎利弗(シャリホツ) 智慧第一。 『般若心経』では仏の説法の相手として登場。 |
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優波離(ウバリ) 持律第一。もと理髪師で、階級制度を否定する釈迦により出家した順序にしたがって、貴族出身の比丘の兄弟子とされた。第一結集においては、彼の記憶に基づいて戒律が編纂された。 |
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須菩提(シュボダイ) 解空第一。空を説く大乗経典にしばしば登場する。 |
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摩訶目ケン連(マカモッケンレン) 神通第一。舎利弗とともに懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子であったが、ともに仏弟子となった。 |
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阿難陀(アナンダ) 多聞第一。釈迦の従弟。出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の世話をした。第一結集のとき、彼の記憶に基づいて経が編纂された。120歳まで生きたという。 |
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普賢菩薩(フゲンボサツ) 大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊。四七日の仏とされる。 |